院長坂上俊保の生い立ちと現在
私の出生地は埼玉県行田市です。
どうして、こんな聞いた事もないような場所で生まれたのか不思議に思って、両親に聞いてみました。
父が九州歯科大学の学生だった頃、母は九州歯科大学の図書館で司書として勤務していたのだそうです。
なるほど、そういう事だったのかと、両親の青春時代を羨ましく思いました。
父の卒業と同時に母と結婚し、手に手を取って『花の東京』を目指して鈍行列車で3日かけて東京に旅立ったのだそうです。
暫く、東京で勤務したあと、埼玉県行田市の歯科医院の院長をまかされ、この地で私は生まれたのだそうです。
父が歯科医、祖父が歯科医でしたので、当然の事ながら『歯医者になるために生まれてきた』男の子でした。
母乳だけでは足らず、人工乳もゴクゴクよく飲み、丸々と肥えたかわいい男の子だったそうで、埼玉県で開催された『健康優良児コンクール』で入賞した事を、父がとても誇りにしていたのを覚えています。
東京から鹿児島に帰ってきたのは、私が3歳の時です。
当然『東京言葉』を話しますので、近所では、『きれいな言葉を話すかわいいぼうや』と評判だったと聞いています。(変われば変わるもので、現在では見事な鹿児島弁をはなすおじさんになってしまいました。)
自然科学に興味を持ち、朝早くから、真っ暗になるまで、他人の畑や田んぼの中を何も考えずに網を手に虫を追い掛け回し、どぶ川をはいずり廻って『どじょう』を追いかけまわしました。
道を歩いている時に、ふと、近所の庭先に柿やビワなどの季節の果物を見つけると、何も考えずに有難く頂戴して美味しく頂くという楽しい幼少時代をすごしました。
そんな時です、釣りの醍醐味を知ったのは。
父が釣りが趣味で、父に連れられて鯛釣りに行ったのがきっかけでした。あの『グイグイ』と釣り糸を引っ張る鯛の感触が忘れられなくなり、休みのたびに父のに鯛釣りに連れて行ってもらいました。
この事が、その後の私の人生に大きな影響を及ぼすことになるとは、この時には想像もつきませんでした。
いつの時代にも『いじめられっ子』というのはいるもので、私はその代表の様な子供だったようです。
泣き虫で気の弱そうな顔をしていたのでしょう。
いつもいじめられては、泣いて家に帰る事が多かったように記憶しています。
傘や上履きを隠されたり、訳もなく叩かれたりして悲しい思いをしたのを覚えています。
この頃からだったと思います。父から『歯科医師の心得』を徹底的に叩き込まれました。
歯科医という仕事がどんなに人のために役に立つ仕事であるのか、患者さんに対してはどのような態度で接するべきかという倫理感について繰り返し繰り返し聞かされました。
そして、次第に自分は将来歯科医になるのだという自覚が芽生えてきました。洗脳というのは恐ろしいもので、高校に入るまで、日本には東大と鹿大と九州歯科大学しかないと勝手に思い込んでいました。
この頃から、休日には一人であちこちを釣りして廻りました。甲突川・新川・七校の堀(現在の黎明館の堀)が私の縄張りでした。
この頃、たったひとつだけ心に引っかかる気まずい思い出があります。
七校の堀にフナ釣りに行って、一匹も釣れなかった日の事です。帰りに照国神社の池にコイやフナが泳いでいるのを見つけました。
悪い事とは知りながら照国神社の池に釣り糸をたらしてみると、面白いように釣れます。最後には大きなコイまでが釣り針に食いついてきて、それはそれは楽しい思いをしました。神社の人に見つかって、一目散に風のごとく逃げ帰ったのを覚えています。その後も時々、七校の堀でフナが釣れなかった日は照国神社にお邪魔して、楽しませてもらっては、神社の人に追い回されましたが、一度も捕まりませんでした。
この事は大きくなるまで秘密にしていたのですが、ある時、父と酒を飲んでいる時に、この事を告白しました。
父の口から思いもよらない言葉が帰ってきました。
「オマエもそげん事をしおったとか。実はオレもちんけ頃、よう照国神社でフナを釣っちぁ、見張りに捕まっせえ、チンガラッ打たれたもんじゃった。あんなぁ、実はじいさんも、ちんけ頃、よう照国神社で釣りをしっせえ、がられたたっちよ。」
そうです、照国神社で釣りをしたのは『血統』のせいだったのだと、その時初めて知りました。
私の初恋は中学2年の秋でした。相手の女の子は学年でもトップクラスの優秀な成績で、運動も抜群の上にバイオリンが上手に弾けるという、私にはまったく釣り合わない女の子でした。ある時辛い知らせを聞きました。
彼女が父親の転勤の都合で来年度に福岡に転校してしまうというのです。悲しい日々の中で、たまたま私が音楽室でベートーベンの『月光』をピアノを弾いていた時の事です。ふと、背後に視線を感じ、振り返ってみると彼女がそこに立っていました。
あまりの驚きに、身動きがとれなくなってしまっていた私に向かって彼女が「私、坂上さんの弾くピアノを聞いてみたい!」と言ってくれたのです。
その日から心機一転ピアノの練習に明け暮れました。朝早く起きてはピアノに向かい、帰宅してからもピアノの練習に没頭しました。中学2年の3学期の最後の音楽の授業は、各自の得意な歌や演奏の発表会の形式になっていましたので、この日に彼女にベートーベンの『月光』を聞かせたいと考えたのです。
いよいよ3学期の最後の音楽の授業の時間が来ました。楽譜を手に、何故か心が澄み切ったような感じでピアノの前に座りました。クラスメイト全員が聞いている中で、私はただ彼女のためだけに『月光』を弾きました。
気の弱かった青年の私には、彼女に想いを告げることなどできる訳がありません。
転校してゆく彼女に対する精一杯の私の気持ちの表現でした。弾き終わったあと『これで終わった!』という充実感と悲しみて゛胸が一杯でした。
この日、放課後に彼女が私の所にやってきて「坂上さんのピアノ素晴しかった。」と言ってくれました。この時が彼女とまともに話しをした最後のひとときでした。
彼女が転校していった後、彼女が座っていた席だけが空席です。その空席を見るたびに苦しくて、悲しくて、胸の中に大きな鉛の塊がはいっているような気分でした。
『こんなに悲しい想いをしなくてはならないのなら、もう一生恋なんかするものか。』と心に決めた、せつない思い出です。はかなく散った初恋の思い出です。
中学校になると、釣りの範囲もだんだん遠くへ、また海釣りもするようになりました。桜島桟橋、名山堀を中心にアジを釣ったり、チヌを狙ったりと、だんだん夕食のおかずに貢献できるようになってきました。
釣りの仕掛けも自分なりに工夫して作ることができるようになり、暇な時間を見つけては釣りの仕掛け作りに専念しました。まぁ、『釣りバカ日誌』のハマちゃんを地でゆくような感じですね。この習慣は現在に至るまで続いています。
さすがに高校時代は大学入試にそなえての受験勉強に専念しました。
専念はしたのですが、そこはそれ『忙中閑あり』で、好きな釣りをやめる事はありませんでした。
高校時代の得意科目は数学と物理。なのにやっぱり歯医者になってしまいました。やはり父の影響でしょうか、敷かれたレールの上を走ることしか出来ない私には、ほかの道を選ぶ知識も勇気もありませんでした。相変わらず、父の『歯科医としての心得』の講義は毎晩のように続きました。
今思えば、その中で現在の歯科医としての基本的な理念や考え方がつちかわれていたのだと考えています。
高校2年の時、向学心に燃え、家庭教師を探してほしいと父に頼みました。やってきた家庭教師は、当時の鹿児島大学工学部機械科の大学院生で、宮崎大学工学部教授を父にもつ新進気鋭の先生でした。なんとか、この先生を追い越せないものかと一生懸命勉強しました。
ところがどっこい相手は百戦錬磨のツワモノで、数学・物理・化学に関しては何を聞いても的確に答えてくれて、涼しい顔で『もう少し、難しい問題を質問してくれないかなぁ。そうじゃないと面白くない。』とうそぶくのです。
『ようし、絶対先生に答えられない質問をしてやる。』とむきになって勉強しては質問をぶっつけてみてもいとも簡単に答えます。結局、高校時代に彼を『ギャフン!』と言わせるような質問をする事すら出来ずに終わりました。
それもそのはずです。私が受験の年に彼も就職試験の年でした。彼はたった2名の募集に対して1000名以上が出願してきた、当時の『ホンダ技研』の研究室の試験に見事パスしたのです。
『ようし、オレも頑張るぞ!』というわけで、見事に両親と家庭教師の先生に乗せられて勉強して歯科大学に合格しました。今思えば、うまく育てられてしまったという感じです。
どんなに勉強に忙しくても、息抜きは必要です。やはり休日は釣り場通いは止められず、飽きもせずに、フナを釣ったり、ハヤを釣ったり、うなぎを釣ったりと毎週のように釣りを楽しみました。
思えば、『釣り』が恋人のようなものだったのでしょう。自分の考えた仕掛けにまんまと食いついて来た魚を眺めては、ひとり悦に入って喜んでいました。
思い出深いのは、『ウナギ』の夜釣りです。夕方、日が暮れる頃、オリジナルの仕掛けを持って、現在の高見橋の下でよく夜釣りをたのしみました。
夕暮れ時に、釣竿を3本しかけてスズを付けて当たりを待ちます。まだ、日が暮れきっていない時に釣れるのは、たいてい大きなフナです。これには興味がありませんでしたので、どんなに大物でも直ぐにリリース。
あたりが真っ暗になると、いっせいにスズがなり始めます。休む間もなく、ウナギを取り込み、餌をつけてはまた投入するの繰り返しです。
1時間半程たって、夜9時頃になると、決まって酔っ払った父が自転車で迎えにきてくれます。納竿して、父と夜道を一緒に帰りました。帰宅してからウナギの下ごしらえをして素焼きの状態にして冷蔵庫に入れておきます。
翌日の朝、これを特製のタレで焼いて、弁当の上にのせて学校に持ってゆきます。豪華な天然うな重をお昼に食べていたのは私くらいのものだったと思います。
学生時代は良く勉強したと思います。将来、患者さんが診察してもらう先生がどんな学生時代を送っていてほしいかと考えた時、やはり一番は歯科医学への真面目な取り組みだと考えたからです。
友人有志を募って、解剖学教室に入りびたり、夜中まで一緒に勉強したり議論したりしました。
彼らとは、講義を受ける時も、一番前の席の一角に陣取って、丁寧に講義をノートに写し取りました。思えば、この時の基本的な受講態度が、後の臨床にうつってからの大きな基礎となっていました。
夜おそくまで勉強にいそしんだ学生時代でした。
この時の友人とは、今でも同窓会のたびに、懐かしい思い出話に花を咲かせます。
6年生になると、白衣を着て付属病院で臨床実習にはいります。患者さんから見ると、歯科医なのか学生なのか区別がつきにくいような気配りがしてあったように記憶しております。
患者さんの中には、付属病院通院暦5年以上といった方もいらっしゃいます。見ただけで、教官(歯科医)なのか学生なのか分かってしまうというベテラン患者さんです。
何故か、私はこの『ベテラン患者さん』に、行った先々の診療科で気に入られ、色々と教えてもらう事が多かったように思います。
その中で一番印象に残ったのは口腔外科に配属されていた時の顎関節症の患者さんです。学生だとはっきり分かる私に向かって
「先生! 私のこの状態を良く見て下さい。私は自分の口の管理をいい加減にしいてたために顎関節症をこじらせてしまって、もう3年も通院しているんですよ。先生が卒業して本当の歯医者さんになった時、こんな私のような患者が一人でも減るように頑張ってくださいね。
私の状態を良く観て顎関節症がどんなにつらい病気なのかを良く勉強して将来の先生の診療に生かして下さい。」
と言って、症状の発症からの経過や受けた治療について事細かく話をして下さいました。
きっと、この患者さんに出会わなかったら、今の私は、今ほど咬合学の奥の深さを知らなかった事とおもいます。この患者さんに報いようと、この時、顎関節症・咬合学の専門書を読みあさり、自分の将来の仕事の責任の重大さを思い知らされました。
後で友人から聞いた話ですが、この患者さんは、私が他の診療科に移動した後も口腔外科の診療室で「坂上先生は元気で頑張っておられますか?」と私の事を気遣ってくれていたそうです。 今にしてみれば、どんなに感謝しても感謝しきれない程、心優しく、私の技量向上に積極的に協力してくださった、思い出の患者さんです。
さて、高校を卒業した後の私の興味を引いたのは『ルアー釣り』です。ブラックバス釣りにはハマってしまいました。こんなプラスチックのかけらを何だと誤解して食いつくのか、これが一番の興味の対象でした。
自分で奇妙な形のルアーを作っては『さつま湖』に持ってゆき、バスが食いつくものかどうかをいろいろ試してみました。市販のルアーはほぼ全種類買い揃えたと思います。
朝3時頃起きて、『さつま湖』に行き、朝もやの中、静かな湖面に向かって、注意深くルアーを投げ入れます。『ポチャン』という静かな着水音とともに水面に輪状に波が広がります。
そのままじっと息を潜めて、水面から波が消えるのを待ちます。次の瞬間静かに糸を巻き取りながら、水面に浮かんだルアーに動きを与えます。ある時は静かに、ある時は急激なアクションをルアーに与え、再び浮上させて静かに相手の出方を待ちます。
水面下では、私の投げ込んだルアーに興味を示したブラックバスがすぐ真下まで来て、じっとルアーの動きをみているはずです。そんな事を想像しながら、再びルアーに動きを与えた瞬間、ブラックバスが水面を割って飛び出し、私のルアーに食いつく様は何物にも変えがたい強い興奮と喜びを与えてくれます。
『やった!』と心の中でつぶやいて、思いっきりロッドを跳ね上げ糸を巻き取ります。ヤツもしてやられた事に気づき、逃げようと必死にもがきます。ある時は水面に躍り出てルアーのフックを外そうと試み、ある時は深く湖底にもぐり、必死の抵抗を試みます。何度も糸を出したり巻き取ったりしながらバスの動きを封じ込め、やがてその巨体を水辺に現します。さらなる興奮が全身を駆け巡ります。
やっとの思いで取り込み、その姿を写真に収めたら、ヤツのファイトに敬意を表して、静かに湖に戻してやります。またいつの日か、ヤツとファイトできる事を楽しみにしながら。
こんな事を10年程続けたでしょうか。人生の最高記録は52センチ、2.5kgのランカーバスでした。
さて、無事大学を卒業して、鹿児島に帰ってきて直ぐに鹿児島大学歯学部第一口腔外科に入局しました。
始めは『病棟』に配属されました。
お口の中の病気で手術が必要な患者さんの検査を行い、手術ではどのような麻酔薬を使用したらよいか、何を準備したらよいかを麻酔医の指示を仰ぎながら準備を進め、手術が無事に終了するように気配りを行ないます。手術後は担当の患者さんの様子を観察しながら必要な処置を行なうのが日課でした。
ここでも、何故か、たくさんの入院患者さんから気に入られました。
一番印象に残っているのは、『骨髄炎』のために下顎の一部を切除し、肋骨の一部を移植しなくてはならなかった患者さんです。
新米の私に向かって「先生! 私を良く観て勉強して下さい。私はたった一本の歯の治療をおろそかにしたばっかりにこんな目にあわなければなりませんでした。たった1本の歯だと馬鹿にしていると私のような恐ろしい病気になってしまいます。将来、私のような患者が一人でも少なくなるように、しっかり頑張って下さい。」
涙ながらにこう話してくれる患者さんに、少しでも報いる事ができるように、現在では自分の患者さんには、病気の状態を納得ゆくまで丁寧に説明するように心がけています。
患者さんに教えられ、患者さんに助けられ、励まされて一生懸命勉強に励んだ、学生時代・修行時代でした。
こんな患者さんたちのお陰で自分は歯科医をしていられるのだと、思い出すたびに感謝の気持ちで一杯になります。
大学病院時代にいろいろな経験をさせて戴いたあと、父と一緒に山形屋歯科坂上医院の副院長として診療に励みました。
私が修行時代に学んだ事、あるいは学生時代に勉強した事は勿論、日々の診療を行なう上での重要な基礎になっていた事は間違いない事ですが、実際に開業医院の世界に飛び込んでみて感じた事は
『教科書通りの症例なんて、実際はどこにも存在しない。 だから、歯科医は日々患者さんと向き合って、治療する事でしか成長しない。』
という事でした。
幸いにも、父が院長で祖父も歯科医でしたので、当時の山形屋歯科坂上医院には、戦前、戦後、現代の治療方法が程よく組み合わさって、ひとつの不思議な環境を作り出していました。
実際に大学で学んだ通りに治療しても患者さんの歯は治らないのです。そんな時は父の助言を聞き、昔ながらの古典的な治療法を試してみると、たちどころに治ってしまうのです。新しい技術と昔ながらの古い技術の良い所取りをしながら、再び初心に帰っていろいろな事を学び直しました。
特に力を入れて診療に当たったのは、やはり顎関節症でした。噛み合せの狂いが、顔の周囲の筋肉のバランスを崩し、結果として下顎の骨が生理的に正常な位置からズレてしまい、これが全身にまで波及している患者さんは原因がお口の中にあるとは全く考えもしない事で、この事を広く患者さんに知らせる事から始めました。
今までに、いったい何人の顎関節症の患者さんと向き合った事でしょう。ひとりひとりの症状が異なるために、顎関節症の本質を見失いそうになった事もありました。
『ここでも教科書通りの症例はひとつも存在しませんでした。』
患者さんの訴えに耳を傾け、患者さんの言葉の中から治療方針を導き出し、治療方法を考え、多くの患者さんを顎関節症の不快症状から救ってあげる事が出来ました。
そんな、格闘とも言える診療の合間に、鹿児島県歯科医師会の社会保険関連のお手伝いをさせて戴く機会に恵まれました。社会保険の仕事を通じて、保険医療制度について学びました。いろいろと問題を抱えている保険制度ではありますが、このルールに従い、この制度を存続させてゆく事が、日本の医療を求める人々には必要不可欠である事も十分に理解できました。
ある日、英語の辞書を買いにいった時の事です。店員さんがたまたま当院の患者さんでした。彼女が言うには、
「先生でも知らない単語があるんですか?」
この言葉を聞いた時、歯科医師という立場は世間の人達からそれなりの評価を受けており、また、それに対する行動というか実力が常に色んな場面で試されている厳しいものである事を悟りました。
山形屋歯科坂上医院は、場所がら外国の患者さんも来院されます。通訳にばかり頼っているのはやはり歯科医師として恥ずかしい事なのかもしれないと考えました。
その日から苦難の道のりが始まりました。なにせ、話されている事が聞き取れない状態でしたので、まず『リスニング』の訓練から始めないといけないと感じ、英会話の入門書を買い集めてきました。それらの本の中に、
『1年間で1000時間のリスニングの訓練が、日本人にとっての必要不可欠な事であり、これ以上の努力をして始めて成果があがる。』
と書いてありました。単純に考えても1日3時間以上のリスニング時間を確保しなくてはなりません。男子たるもの、ひとたび志をたてたら、そう簡単に諦めるものではない、と自分に言い聞かせ、通信教育のテープと教材を申し込みました。
その後の私の生活は全て英語の訓練を中心に回っているようなものでした。(でも、釣りには行きました。)結局1年目のリスニング時間は1300時間程度で、かなり耳も慣れ、語彙力もついてきましたが、なかなか言いたい事を発話出来ません。教材を1年延長して購入し、これと同時に街の英会話教室に通い始めました。思えば、これが地獄の始まりでした。
私のクラスの担当外人講師がかなり手ごわい人物でした。私は必死になって話そうとするのですが、なかなか出来ません。その様子を見て、鼻で笑うというムカつくような人格の講師でした。ご夫婦と子供2人で来日されている女性の講師で、当然彼女の方が英語力か上なのは当たり前なのですが、とにかく私を挑発しては、ぶざまな姿の私をせせら笑うのです。
しかし、今にして思えば、負けん気と根性には自信のあった私には、自尊心と誇りをズタズタに引き裂かれたからこそ、手負いの獅子のごとく、毎日勉強してはレッスンの時間になると、彼女に噛み付かんばかりの勢いでぶっつかり、コテンパンに叩きのめされ、これが悔しくて、また勉強をしながら「いつか、あいつを英語で言いくるめて、ギャフンといわせてやる!」と闘志をむき出しにして、また向かっていっては鼻であしらわれるという状態が続いても、負けずに続けられたのだと思います。
人間というものは、一番大切な誇りと自尊心を奪われた時、サルになるものです。そして、サルになった時が学問を成就させるのに絶好の時です。
そんなことを繰り返し、1年、2年と時が過ぎて行きました。相変わらず彼女には何を言っても鼻であしらわれる苦悩の日々でした。でも、そんな中で、自分のスピーキング力がだんだんと向上しているのに気づき始めていました。リスニング時間も3年で3500時間を突破していました。
そんなある日、くだんの憎さげな担当講師から仕事の都合でアメリカに帰国する旨を聞かされ、その前に、一度家に遊びに来いとのお誘いを受けました。私も家族を連れて彼女のご家庭を訪問しました。
その時聞かされた事は、この講師の母国語はペルー語で、英語は後から勉強したとのこと、生徒の中で、突き放しても突き放しても食い下がってくるのは私ひとりだった事、自分が外国語としての英語を学ぶ時の苦労談、なによりもびっくりしたのは、彼女は日本語が話せたんですね。
その時彼女の言った心に残る言葉は、
Never stop studying English. You'll be able to speak English as well as I ,soon.
乗せられ易いんですね、私は。 彼女が帰国した後、2年くらい勉強を続けました。
そのうち、英会話教室の外人講師の方々が次々と患者さんとして当院を受診してくださり、いつのまにか、私も英語で病気の状態や治療方針、世間話などか゛なんとかできるようになっていました。
現在では、特に通訳さんのお世話にならずに海外からの患者さんの治療も英語の分かる人であれば、なんとかなるようになりました。
そんなこんなで、毎日を真剣に、精一杯努力する事で、自分も少しづつ人様のためになっている事を感じとる事ができるようになってきました。
そんな頃の事です。父から『もうおまえが院長になれ』と言われ、山形屋歯科坂上医院の院長を引き継ぎ、新たな気持ちで、新しい一歩を踏み出しました。
まだまだ、不安はありましたが、父や先輩の助言に助けられ、私なりに頑張りました。現在は、院長として精一杯努めを果たす毎日です。もう父も他界しましたが、父や祖父から直接・間接に教わった事、学びとった事を礎に、今後ますます発達・発展してゆく歯科医療技術を学び取り、皆様の為に頑張ろうと決心を新たにする今日この頃です。
さて、人間は仕事ばかりしていてはいけません。たまには息抜きをしないとストレスで押しつぶされてしまいます。山形屋歯科坂上医院で働くようになってから、ブラックバス釣りを止めて海釣りへと転向しました。忙しく働いていた昭和の終わりの頃、小型船舶操縦士の免許を取って、小さなモーターボートを手に入れました。『病膏肓に入る』という事でしょうか。ついに念願の船頭になりました。
休日にはボートを操って錦江湾を所せましと走り回り、鯛釣りに精を出しました。大鯛を釣って新聞に載った事もありました。市場に鯛を売りに行って、お小遣いを稼いだ事もありました。
皆さんは鯛のアタリが冬場と春夏秋では違う事はあまり御存知ないと思います。
私が一番面白いと思うのは冬場の鯛釣りです。他の季節の鯛は結構餌に貪欲に食いついてきますので釣り易いのですが、冬場の鯛は一味違います。まず、竿先に『コツッ』という小さなアタリがあります。これを感じそこねると全く釣りになりません。
最初のアタリを感じたら、竿先を段をつけながら少しづつあおります。海底で、エビが危険を感じて逃げようとする様子を自分の針につけたエビに演出するかのように動かしてやるのです。すると、食い気のある鯛は必ず追い食いをしてきます。この鯛を針に掛けるまでの、鯛との知恵比べが、たまらなく面白く鯛釣りの醍醐味と言っても良いでしょう。小さな鯛でも大きな鯛でも、最初の『コツッ』とくるアタリはほとんど同じです。うまくエビを躍らせて針に掛けた鯛が以外に大きくてびっくりする事もあれば、この『モゾモゾッ』とした感触は大鯛に違いないと考え、慎重に針に掛けてみると手のひらサイズのかわいい鯛だったりします。
『ここでも、教科書通りにアタリをくれる鯛など一匹もいません。 だから漁師は実際に海に出て、数多くの鯛と向き合って真剣に勝負することでしか成長しないのです』
今後も、皆様からの沢山のご希望やお叱りの言葉を戴きながら、日々の歯科診療に精一杯努力してゆく所存です。どうか宜しくお願いいたします。
最後までつまらない話にお付き合い戴き、有り難うございました。
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